おやじのひとりごと

ジャングルのオヤジは石川県津幡町在住である。
かねてから津幡町の地方行政のありかたや、その計画性に大きな疑問を感じていた。
民主党が津幡町の町長候補を公募するに当たって、オヤジも一筆書いてみた。
しかし町長にはふさわしい人材が他にいるからという理由でオヤジは公募には応じなかった。
これは、オヤジからの、津幡町をダシにした地方の産業改革に向けての提言である。


森林再生で地域の蘇生を

                                           

ジャンおぢこと  中村政利

「補助金の真綿で窒息、地方自治」

市民運動に関わるようになった3年前からそのニュースレターに掲載するための川柳を作るようになった。初めて書いた川柳が上の一句である。

なるほど、国は地方に、さまざまな補助金や交付金を与えて地方の経済を潤してきた。たしかにインフラ整備のためにどうしても必要な事業もあったろう。しかし、労せずしてお金が回るというその味をいったん憶えたが最後、補助金に依存した行政は地方の特色を奪い、産業を奪い、自立して考える力を奪ってきた。社会資本がかなり整備されるようになっても、地方は、みずから地域造りを考えることをせず、国家と国土の均衡ある発展や整備に目を配ることもなく、自民党の族議員に取り入って国の借金を天井知らずに増大させながらおねだりを続けてきた。それは地方の痴呆化であり自殺行為である。それも補助金という真綿で窒息しながら死んでいくという安楽死である。

 そして最近作に「地場産が建設業という恥辱」。

昭和の大合併以降、地方の経済は公共事業と足並みをそろえて発展した。だが土木建設業ばかりに頼ってきた結果、地域の特色ある文化や産業は廃れ、いまや地域の個性が虫の息となっているところばかりが目立っている。地場産業といえるものはすっかり衰退し、行政が目をかけてきた土木建設業者ばかりが目立って多い。しかし、かれらもバブル経済崩壊後の構造不況による公共事業の削減で息も絶え絶えと言うのが現状である。

 国内の就労人口の8%という建設業だが、石川県では10%。県内の市町議員に限ればおそらく34割以上の議員が建設業に関わりをもっているだろう。議員をやるもっともウマミのある職業が公共事業に依存した建設業だからだ。土建屋の同業者組合が名前を変えただけのような市町議会もあることだろう。建設業は農業とも密接な関係がある。水田単作が中心の石川県の農村では、10月から3月までの農閑期の主な現金収入源が建設業であったからだ。農民は農協と土建屋によって二重に縛られて自民党の集票マシーンとなってきた。

 だが、自らが生き残るために建設業を優遇した行政は破綻の瀬戸際に立っている。いまやむしろ、必要なくこさえたハコモノの維持に振り回されて財政状況をさらに悪化させている自治体の何と多いことか。

 津幡町では国土交通省の「まちづくり交付金事業」の一環で、現在、北部公園が造成中である。バイパス沿いの田んぼを4.4ヘクタールつぶして田園のはずれに平坦な公園を作っている。さしたる建物もないのにその建設費は20億円。プールやグランドを完備した小学校の建設費より多いくらいだ。用地買収に応じて田んぼを売った一部の農民や土建業者や地元議員のほかには公園に期待する声はほとんど聞かれない。公園など造成する前からすでにのどかな田園地帯であったからだ。交付金事業でなかったならばけっして作られなかった公園はまさに族議員と町議会議員たちの「お手盛行政の産物」以外の何物でもない。

 族議員が国家予算をネコババしたそのおこぼれにあずかろうという地方自治は亡国への一里塚となるばかりではなく、地方からも個性や活力や産業を奪い、子供たちの未来への希望をさえ奪うものでしかない。

 

 古くから加賀、越中、能登3国の分岐点として、交通の要衝、人と文物の集まる町として発展してきた津幡町は、同時に、河川や湖、水田と山林に囲まれた自然の恵みに溢れた実りのふるさとでもあった。県の中央に位置し、隣接する金沢市のベッドタウンとして人口は一貫して増え、税収も増えつつある、まさに活力に溢れた町であってあたりまえのはずであった。それが、どうしたことだろう。2005年の地方債残高をみれば全国約800の町の中で堂々19位の大借金町である。上位を占める多くが離島であるとか平成の大合併を経た自治体という事情のある中で、地理的に恵まれ、過疎とも無縁な大きな町が220億円もの借金を抱えているのは異様である。まさに、地場産業を育成することなくハコモノ行政に頼ってきた帰結の無残な光景がここにある。

 かつて昭和の大合併以前にも、度重なる水害のせいで津幡町は、今の夕張市と同様、財政再建指定団体への転落の瀬戸際にあった。町営の競馬場まで開設して財政状況の改善を画策していた津幡町にとっての救いの神は当時、羽咋郡にあった河合谷村との合併であった。山間地にある河合谷は戦後の住宅ブームを支える建築材の大供給地であったからだ。森林資源に依拠した産業構造が似通っているという理由と、共通の幹線道路で町へ繋がるという交通事情もあって、隣接する旧英田村に倣い、郡を越えて昭和29年に津幡町に合併した。

実際、山林は昭和50年頃までは、建材、燃料として大きな富をもたらした。だが、その現況はどうだろう。薪炭はもはや燃料としての役割を終え、建材としての木材も、国内需要のわずか2割をまかなう程度に衰退している。総合商社は安い木材を供給するために、東南アジアで大規模な森林伐採を続けさせ、そのことが、かの地に不毛の荒地を作り続け、産業構造に大きな影響をあたえるばかりか、地球温暖化を大いに促進し続けている。若者は手っ取り早い現金収入を求め、山の仕事を受け継ぐ者はなく、山はすっかり荒れるに任せられている。いくら森林業を続けたくとも国に裏切られ続けてきた林業農家はすっかり自信と気力を失くし、老齢化し、疲弊しつくしている。

この森林業の再生こそが津幡町そして能登半島の経済、文化の再生に繋がる大きな道であるとは考えられないか。民主党の「コンクリートから人へ」の産業意識の転換と歩みを合わせて地方自治が主導の森林開発を進められないか。そして日本の新しい風土として築き上げてはいけないか。

人工林の面積が日本と同じ約1000万haのドイツにおいて、森林業従事者の人数は約130万人。それはドイツの自動車産業従事者の2倍に近く、日本の森林業従事者の25倍にもなる。木材需要に対する国産材の自給率はほぼ100%。計画性の高い植林、造林、伐採、運搬、加工のもと循環型の経済が営まれ、森林は守り育てられているのだ。そのノウハウをわれわれが受け継ぎ、日本独自のアレンジも加えて地域の文化として育てていけたらと思う。

 全国有数の広大な森林公園を有する津幡町は町の面積の4割以上が森林地帯であり河合谷以外にも森林資源に恵まれている。仕事がなくて苦しんでいる建設業者には森林業に転用できる機材があり林道整備の能力もある。かれらの技術と知恵とを生かして新しい地場産業として森林業や木材加工業を町の基幹産業として育てていけたら、自治体内地域格差や過疎、限界集落の問題なども縮小するはずだ。

若い世代が山村へと戻ってくれば、お年寄りたちも元気を取り戻し、山村留学や林間学校、山村民宿などを展開することで、全国に山の生活や文化のすばらしさを発信していけるのではないか。

2年前、少子化ゆえに耐震調査すらされずに廃校にされた河合谷小学校。かつて昭和のはじめ、村人たちが5年間の禁酒による蓄財で校舎を建て替えたという地方自治と学校教育のお手本のような聖地。地域のよりどころ、心の支えを奪われて人々は悲しんでいる。その聖地に地元の木材を使って近代的な木造校舎を建て、山村留学を兼ねた特別認定小学校を再開できたらと夢は尽きない。

 川柳で始めた本稿はやはり川柳で終わらせたい。

「切り株に座ると聞こえる祖父の声」

 この句は、わずか戸数10戸の津幡町の山間地の集落に住み、永く町議会議員を務め、3年前に引退したある議員の最後の選挙公報に載せられた句である。お手盛り政治とは無縁の高潔な人柄で知られ、また、煙たがられる存在でもあった。ボクが川柳を作るきっかけになったのもこの句を読んだことだった。

 木も、山も、人も、そして町も、世代を越え、時代を越えて、守り育てなければならない。先人から受け継ぎ、次代へと伝えられる物は、歴史を語り、伝統を映し出す。人々が世代を越えて受け継いでいく物にこそ、町の、そしてその住民の品位が現れ、それを守り伝えることが地域の誇りとなるのである。






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