ダンス音楽としてのジャズ

 

1.大衆音楽と芸術音楽

趣味の領域なのだからもちろん優劣はないが、音楽には大衆の生活感情をあらわしたり、それに寄り添おうとする類のものと、生活感情から遠ざかろうとする類とのふたつのベクトルがあることに気が付いた。大衆の生活感情に関与することなしに創造者としての感情や感覚の機微をつきつめていけば芸術音楽ということになる。現代クラシック音楽やプログレ、アンビエント、実験音楽などは大衆の生活感情から遠ざかろうとするベクトルを持つ。これに対してレゲエやサンバ、サルサ、ソウル、歌謡曲などは大衆の生活感情そのものをその基盤に持つ大衆音楽であり、そこでスターともなれば共同体全体の感情や意識の体現者としての尊敬を集める。

ビートルズをきっかけに西欧のポピュラー音楽に夢中となって音楽に親しむようになった僕だが、大学生になってオーティス・レディングに打ちのめされてからは、音楽に大衆の生活感情の発露を求めるようになった。僕が生活感情の発露を表現する音楽として40年間愛好してきたのがブルースやソウルであり、その同じ美意識が通用するレゲエやブラジル音楽やラテン音楽、アフリカ音楽に親しみを感じてきた。一方、クラシックや70年代以降のロックやフュージョン・ミュージックやJポップなどにさほど魅力を感じないのは、それらに大衆意識の裏付けが無いからだと思う。

 

それではジャズはどちらに分類されてしかるべき音楽なのだろうか。

 

ジャズはその誕生の時から大衆音楽としての側面と芸術音楽としての側面との二律相反する性格を持っていた。むしろ、それがジャズをジャズたらしめる必要不可欠な性格だったのではあるまいか。

 

2.ジャズはそのニュー・オーリンズにおける出自から両面的

ジャズは19世紀後半に米国南部の港町ニュー・オーリンズで生まれた。ミシシッピの河口をメキシコ湾から130キロ遡り、河が大きく湾曲する岸辺に築かれた町は三日月のような形状からクレセント・シティと呼ばれ、ヨーロッパ、アフリカ、南米、カリブ海地域の産物の陸揚げ地として栄え、米国最大の奴隷市場があったことでも知られる。もちろん奴隷たちはサトウキビ栽培や綿花栽培に酷使され、ニュー・オーリンズはそれらの積み出し港でもあった。

この地域には17世紀からフランス人が入植し、18世紀には北方カナダに至るまでの広大な土地がルイ王朝にちなんでルイジアナと呼ばれ、白人入植者たちもアフリカ大陸からカリブ海を経て運び込まれた黒人奴隷たちもカトリックを信仰するようになっていた。ニュー・オーリンズは18世紀後半には一時スペイン領となるものも、すでに定着したフランス文化は揺るぎもせず、19世紀になってナポレオンが再びフランス領とし、しばらくしてメキシコ湾からカナダまで続く広大なルイジアナ植民地を創世期のアメリカ合州国へ割譲した後でも、この町からニュー・オーリンズのフランス仕込みのカトリック文化が衰退することはなかった。

大西洋やカリブ海などの長い航海の果てに上陸した船乗りたちが求めるものは、うまい料理、酒、そして女性である。ニュー・オーリンズには19世紀後半までに町のいたるところに売春宿があった。そして、それぞれの宿に供えられたサロンには楽士がいた。小さな宿ではピアニストだけが、大きな宿では弦楽隊が雇われていた。その楽士を務めていたのが主にクリオールたちだった。

カトリックの町ニュー・オーリンズには当時、三つの人種階層があった。白人と黒人と混血のクリオールである。黒人やインディアンや中南米出身の有色人種女性を妻や妾にした白人入植者たちは間に生まれた混血の子どもたちに新しい階層を与え、黒人奴隷と区別して優遇したのだ。クリオールたちはつらい肉体労働ではなく主にサービス産業につけるよう教育された。売春宿の楽士もそのひとつである。西洋音楽の理論を学び、楽譜を読み書きし、器楽演奏のレッスンを子どものころからうけて育った音楽のプロであった。混血が新たな社会階層を作るのを認めるのはカトリック文化ならではである。一滴の有色人種の血が混じっても黒人だと差別する純血厳格主義のプロテスタント社会ではあり得ない現象だ。また黒人の中にも19世紀初頭のハイチ独立の混乱の中から逃げ出してこの地に住みついたり、奴隷所有者が亡くなったのち解放された自由黒人たちが多くいた。

 ここに天変地異が起こる。南北戦争だ。ニュー・オーリンズでも大きな戦いがあり、敗れた南部は北部に統合された。WASP(プロテスタントでアングロ・サクソン系の白人)の価値観がニュー・オーリンズの独自な人種階層など認めるわけもなく、ほかのディープ・サウス地域と同様にクリオールはすべて黒人として十把一絡げに差別される存在となったのだ。

 ちゃんとした教育を受けてヨーロッパ文化を吸収したクリオールたちが、日曜日ごとにコンゴ広場に集まってアフリカ伝来の太鼓に合わせて「港の仕事はもういやだ」とか「となりの娘と仲良くしたい」と生活感あふれるワークソングや戯れ歌を歌っていた港湾労働者を主とする黒人奴隷たちと同一視されることは屈辱だった。楽士たちはせめて仕事の音楽の上ではエスプリ(気の利いた感覚)を強調しようとする。昨日まで奴隷であった黒人とは違う種類の文明人だと技術的にも感覚的にも高度な洗練をひけらかそうとした。ジャズもジャズマンも潜在的にスノッブな優越意識と切り離せないのはその出自からの理由があってのことである。

 南北戦争は黒人奴隷であった階層にも新しい音楽をもたらした。ブラスバンドである。武装解除された南軍の軍楽隊の管楽器が安く市中に出回ったとき、その楽器を手に入れて独学で奏法を習得し葬送パレードのアルバイトを始めたのは解放奴隷の黒人たちだった。その演目は黒人霊歌やマーチを主とするが、そこにはアフリカのリズムに加えカリブ海の玄関口として市中に氾濫するさまざまなラテン文化やかつての支配者であるフランス、スペイン文化をごちゃまぜにしたスパイスが利いていた。

 19世紀末、市中各地に散在していた売春宿が、町の中心地であるフランス人たちに最初に建設された街区、フレンチ・クオータに隣接する一角に集められ、ストーリーヴィルと名付けられた時、その周辺に歓楽街が形成された。バーやレストランやダンスホールはブラスバンドで腕を上げた黒人楽士たちを雇い入れる。景気よく客を集めてくれというわけだ。

やがて売春宿お抱えのクリオール楽士たちと歓楽街の黒人楽士たちとの交流も始まる。そこで生れたのがジャズである。クリオールの高踏的態度は最初は黒人たちを見下したものだった。だがクリオールから楽曲や楽理や演奏技術とともに、その美意識をも学んだ黒人ジャズメンたちは、音楽の解釈や演奏に創意工夫を凝らし、歓楽街でラグタイムやスピリチュアルを演奏しながらも自分たちの音楽を他とは違うものにしていった。それは、この地の様々なリズムを内包したスウィングの感覚と、ひとつレベルの高い音楽を演奏しているのだという自意識に支えられた即興による個性の表出である。

 人の体を揺すらせダンスに誘うスウィング感は大衆音楽としての大きな特色だ、個としての感情や感覚の機微を突き詰めていこうという態度は芸術音楽の特色だ。その両者を並立させてジャズは始まる。それどころか、僕はその両面性こそが歴史を通じてジャズの特性だと思うのだ。ジャズと呼ばれる音楽がその芸術性を強調し、ジャズメンが芸術家としての誇りを強く意識することが多いのはクリオールの優越意識を受け継いできたからだし、スィング感覚やそれを受け継ぐグルーヴ感覚を無くせばそれはもうジャズとは呼べない。

 

3.ダンス音楽としてのスウィングとビバップ

1917年米国が第一次世界大戦に参戦した時、連邦政府の命令で売春宿街ストーリーヴィルは閉鎖された。軍港でもあったニュー・オーリンズから出征する兵士たちの性病と厭戦気分を予防するためである。バーボン・ストリートを中心に残る楽士たちもいるにはいたが、多くの楽士たちは仕事を求めてシカゴやニューヨークなどへと移住した。ジャズの中心地が北部へと移動したのである。

 ローリング・トゥェンティーズと言われる。Rolling(転がる)ではないRoaring(吼える)であり、狂騒の20年代と訳される。第一次世界大戦後、戦争で疲弊した欧州大陸とはうらはらに米国は繁栄を謳歌した。都市には摩天楼が林立し、自動車、ラジオ、映画の産業が繁栄し、大量生産大量消費の現代文化が始まったのだ。ニュー・オーリンズ由来の新しい音楽にはジャズという名がつけられ時代を象徴する音楽としてもてはやされた。1920年代はジャズ・エイジとすら呼ばれた。禁酒法の時代にあっても、大都市でジャズは新時代を象徴する音楽として人気を集め、クラブやサロンに人を集め、踊らせたのだ。

シカゴではニュー・オーリンズ出身のルイ・アームストロングが地元の音楽家とグループを作ってアイディア溢れるホットな演奏を繰り広げ、ニューヨークではコットン・クラブが1922年に開店し、そこではデューク・エリントン楽団やキャブ・キャロウェイ楽団がジャズを奏でて黒人ダンサーと共に繰り広げるエキゾチックなショウが大評判となった。

都市ばかりではない。ジャズはレコードやラジオの発達とともに全米いたるところで鳴り渡り、フランスやイギリスなどのヨーロッパでも人気を博して、その活気溢れるホット・サウンドで人々を踊らせたのだ。

 1929年、繁栄を謳歌していた消費文化に冷や水がかけられた。大恐慌である。5年間で20分の一にレコード生産が減少するほどに、音楽業界が受けた打撃は大きかった。ジャズも大打撃を受け多くのジャズマンが職を失った。

 だが1932年、フランクリン・デラノ・ルーズヴェルトという新しい大統領のもとでニュー・ディールという新しい政策が始まるのと歩調を合わせてジャズも巻き返しに出た。

 1930年代半ば白人クラリネット奏者ベニー・グッドマンを先導としてスウィングの名のもとにジャズの第3章が始まる。スウィングはジャズ・エイジのジャズ以上にダンスと結びついていた。

全米各地にテリトリー・バンドと呼ばれる地元のダンス・バンドが結成されスウィング音楽で人々を踊らせた。テキサス州やオクラホマ州ではカントリー音楽のストリング・バンド(弦楽器隊)がウェスタン・スウィングを始めた。男女の肉体が接触し合うダンスの場では白人黒人が入り混じって踊ることはご法度だった。白人には白人専用のダンス会場が、黒人には黒人専用の会場が用意され、出演するバンドも人種が混じることはなかった。

黒人専用のダンスホールやボールルームでは黒人男女がリンディーホップと呼ばれるアクロバットまがいのダンスが流行し、バンドもメリハリの強い熱狂的な音楽を演奏するのが常で彼らはジャンプ・バンドと呼ばれた。電気楽器以前の大音量はホーンによってもたらされる。ジャンプ・バンドは数名以上のホーン・セクションを擁したビッブ・バンドとなって聴衆をダンスに駆り立てた。

 そんなジャンプ・バンドの中心地のひとつが中西部にあるミズーリ州カンザス・シティだ。全米に禁酒法が施行された1920年代にあってもカンザス・シティのみはペンダーガスト市長のもとで夜の町は栄え、ジャズを演奏する数多のバンドが覇を競っていた。スウィングの流行と共にバンドはジャンプ・バンドとなりブギやブルースで人々を踊らせた。

 1936年、カウント・ベイシー楽団がニューヨークに進出する。アンディ・カーク楽団やジェイ・マクシャン楽団が後を追ってニューヨークで人気を博す。

音楽業界誌ビルボードが「ハーレム・ヒット・パレード」の名のもとに全米黒人人気曲チャートを掲載し始めたのは1942年だ。ハーレムというのはニューヨークのマンハッタン島にある地区の名称で1930年代から黒人文化の中心地だった。そのハーレムの中心地にあるのがアポロ劇場で黒人大衆音楽の殿堂である。

デューク・エリントン・オーケストラはそのアポロ劇場での花形楽団だった。ビルボードのチャートでもジャズ・ミュージシャンの中では最多の5回ナンバー・ワンを放ち、しかもチャート発足当初の1943年と44年に連続している。このことはチャートの無い1940年代初頭にもエリントン楽団が他の追充を許さないほど黒人社会で人気があったことを推測させるのに充分だ。エリントンが名を挙げたコットン・クラブは客のためのダンス・スペースのないサパー・クラブであり白人客専用の高級クラブだったことを指してエリントン楽団が黒人大衆文化とかけ離れた存在とみるのは大まちがいで、エリントン楽団ほど黒人文化を抽象的な芸術としてまとめあげた楽団は他にいない。たしかにエリントンの音楽はダンス音楽ではなかったが、もっとも黒人の生活感情を表現できる技術と感性にたけたソロイストたちがエリントンの統制の下、一糸乱れぬアンサンブルで、エリントン自身の抽象化された黒人美意識を音楽にまとめあげたのがエリントン楽団の芸術であり、それは黒人大衆の美意識とも合致するものだったのだ。そのソロイストたちがそれぞれエリントンのもとを離れての活動を見るとエリントン芸術の姿がはっきりする。クーティ・ウィリアムズもソニー・グリーアもキャット・アンダーソンもベン・ウェブスターもリズム・アンド・ブルース寄りの、この上なく、くっさいジャズに徹しているのだから。

こんな1940年代の初頭、ビバップという新しいジャズの潮流がハーレムで始まった。

中心はエリントンとコットン・クラブで覇を競っていたキャブ・キャロウェイ楽団に所属するトランペッターのディジー・ガレスピーとジェイ・マクシャンとともにニューヨークにやってきたアルト・サックス奏者のチャーリー・パーカーだ。かれらは自分たちのビッグバンドでの仕事が終わった後にセロニアス・モンクがピアニストをケニー・クラークがドラマーを務めるミントンズというジャズ・クラブでジャムセッションを始めた。ベニー・グッドマンのところにいた黒人ギタリストのチャーリー・クリスチャンやクーティ・ウィリアムズ楽団にいたバド・パウエルがこれに加わる。

ビバップはそれまで4ビートであったジャズのリズムを倍の8ビートにし、アフタービートを強調し、リズムを疾走させた。急速で起伏の多いテーマを変換コードや代理コードを多用することでどこまで展開できるかと極限を目指した。夜を徹して行われる丁々発止のアドリブ合戦にミュージシャンは芸とアイディアの限りを尽くした。

ビバップがジャズを踊る音楽から鑑賞する音楽へと変えたとはジャズの定説である。だが僕はこれに異を唱えたい。ビバップは当時ニューヨークで暮らす黒人大衆の生活感情にもっともフィットする音楽であったし、あるいは、新しいダンス音楽として登場したものだとすら思われるからだ。

ビバップ最盛期である1946年頃に作られた「ジャイヴィン・イン・ビバップ」という映画がある。出演するビバップの創始者ディジー・ガレスピーが自らのオーケストラに合わせてステップを踏んで踊って見せるのだ。その次のシーンでは男性黒人二人組のダンサーが現れビバップに合わせて足をスプリットしたりジャンプしたりのヒップホップ・ダンスの原型のような踊りを見せる。ハーレムの若者たちがビバップ・ダンスに関心を向けなかったはずはない。

劇映画ではあるが1988年クリント・イーストウッドが製作監督したチャーリー・パーカーの伝記映画「バード」では1950年頃のパーカー・コンボの南部巡業が描かれていた。田舎の納屋のようなダンスホールの階下では黒人客たちがダンスを踊り、2階席からは白人客たちが手すりから身をのりだすように楽団を鑑賞する。

このシーンからは二つのことが読み取れる。ひとつは黒人大衆にとってはビバップもダンス音楽であったということ。もうひとつはビバップを鑑賞音楽として楽しむ白人客が増えていったということだ。おそらく白人には目まぐるしすぎて、あのリズムでは踊れなかったので、ジャズを座って鑑賞したし、ビバップは踊らない客にもじゅうぶん魅力的な生気あふれる音楽だったのだ。

 

4.ダンスを捨てたクールやハード・バップ

マイルス・デヴィスに「クールの誕生」という名盤がある。1948年、チャーリー・パーカーのコンボの若手トランペットであったマイルスがスウィートな白人ダンス・バンドであったクロード・ソーンヒル楽団の編曲者ギル・エヴァンスやバリトン・サックス奏者のジェリー・マリガンらとともに編曲重視の九重奏団を結成したのだ。ビバップのように性急ではなく、クラシックの楽曲のように端正に編曲されたくつろぎ重視のサウンドは、翌年ホットなビバップに対抗する意味も込めてクール・ジャズと名付けられ録音された。ジャズが黒人大衆の美意識と決別した瞬間である。そのコンセプトは西海岸の白人ミュージシャンにインスピレーションを与え、かの地がクール・ジャズのメッカとして脚光を浴びた。主な聴衆はビバップでジャズに目覚めた白人聴衆である。

1955年にチャーリー・パーカーが亡くなると、東海岸のジャズの変貌も明らかになった。ジャズには今や、黒人大衆の美意識に従わずとも、白人中産階級というもっと数も多く金払いの良い聴衆がいたからである。ビバップはよりテンポを落とし、構成美とスムースで無理のないアドリブを売り物とするハード・バップへと変容する。踊らない、座って聴く聴衆だけを相手とする音楽にジャズは変質してしまったのだ。ビバップの演奏者たちにとってもハード・バップへの変化はありがたいことだった。息をもつかせぬテンポでアドリブの応酬を真剣勝負するビバップばかりでは体力や気力が続かない。音楽家たちにとってもくつろぎの音楽を演奏することでゆとりが生まれる。

われわれ日本人が最も尊重するのは、この時代の、白人中産階級に媚を売った、わずか5年間のダンスと決別したジャズである。 

いっぽう黒人大衆にはリズム・アンド・ブルースというもっとダイレクトに生活感情を表現し人々をダンスに誘う音楽が大流行していた。ジャズが黒人大衆を見捨てたのと同時に黒人はジャズを見捨てたのである。

 

5.基盤としての大衆性を無くして苦悩した60年代のモダン・ジャズ

座って聴くための音楽になった時点からジャズの衰退は始まった。それを生み育てる文化基盤を持たない音楽は脆弱である。

スムースなアドリブの展開など先が知れている。ところがジャズの新しい聴衆はそれを求めているのだ。あっという間にアイディアは枯渇し、ジャズは聴衆を顧みず純粋芸術への道をひた走る。モードによってコードの制約から自由になろうとしたり、無調性のフリーフォームを試したり、リズムすらその場その場の感覚の赴くままといった実験を繰り返すようになる。だが、制約のないところには解放もない。1960年代のフリー・ジャズの多くは音楽家の断末魔の苦しみの声ではないか。ジョン・コルトレーンに「アセンション」という作品がある。集められた音楽家がリズムもメロディもハーモニーもないままに感覚の赴くまま好き勝手に音を発してどうなるかという壮大な実験だ。そこには混沌と混乱以外の何物もなく、何かを聞きとろうと苦行に耐える観客しかいなくなる。

 

6.大衆性を取り戻した60年代のソウル・ジャズ

ちょうど20年前にジャズ批評社から「コテコテ・デラックス」と題されたジャズのガイド本が出たことがある。そこにはジミー・スミスなどのオルガニストを筆頭に脂ぎったダンス音楽としての1960年代のジャズのアルバムが何百枚と紹介されていた。そのほとんどがそれまで権威あるジャズ雑誌や紹介本からはコマーシャルだとして無視され続けてきたLPたちであった。衝撃的だった。いま僕は1960年代にはジャズの本道はむしろこちらにあったのだと思っている。

1960年4月もっとも南部の泥臭さ売りとしていたブルース・シンガー、エルモア・ジェイムズが「マディソン・ブルース」をシカゴで吹き込んでいる。その曲は前年に吹き込まれ60年の3月から5月にかけて大ヒットし最高R&Bチャートの5位にまで上がったレイ・ブライアント・コンボのヒット曲「マジソン・タイム」のアンサー・ソングである。抒情派ジャズ・ピアノの名手として日本でも人気の高いピアニストがレイ・ブライアントで、僕にははじめ二人が同一人物であるとはとても思えなかった。

この「マジソン」というのはメリーランド州ボルティモアの振付師が考案したダンス・ステップでレイ・ブライアント・コンボによるR&Bスタイルの軽快な曲は瞬く間に全米でヒットした。その1960年代初頭のボルティモアを舞台にしたジョン・ウォーターズ監督の映画「ヘアスプレイ」でもダンス・シーンで最初に使われているのがレイ・ブライアントのこの曲である。

  1980年代初め、このレイの演奏を福岡中州のジャズ・クラブで聞いたことがある。ディジー・ガレスピーの子分であったヴォーカリストのジョー・キャロルが亡くなった数日後のことで、かれのアルバムで伴奏を務めていたのがこのレイ・ブライアントだった。それが愛聴盤であった僕は演奏終了後に亡くなったばかりのジョー・キャロルの話題をレイにぶつけたことがある。「絶対に最上のシャウターだった」とレイは強調していた。レイは歌伴奏に定評があり、ベティ・カーターやデビュー当初のアレサ・フランクリンの伴奏も努めている。翌翌年、金沢へ戻ったら地元のライブ・ハウスのスケジュールでレイの名前を見つけた。前に見たからいいやとパスしたのが悔やまれる。今となっては興味の尽きないジャズ人生の持ち主だということがわかるからだ。 

 ディジー・ガレスピーと同じフィラデルフィア出身で家族がゴスペル教会のオルガニストを務めるレイ・ブライアントは1940年代後半からビバップ・ピアニストとして活動を始め、チャーリー・パーカーやマイルス・デヴィスやソニー・ロリンズたち薫陶を受けた。時代は目まぐるしく移り変わっていく。初アルバムをエピックから出した1955年にはもはやハード・バップの時代となっており、ブライアントは自らの泥臭いフィーリングを封印してスインギーな抒情派のピアニストとして名声を博す。何枚かのソロやトリオでの抒情派作品を発表した後、1959年ニューヨークに進出。大手コロンビアと契約してこの「マジソン・タイム」を皮切りに生まれ変わったかのようにR&B色濃厚な作品を連発するようになるのだ。1960年代中ごろからはスーやアーゴなどの黒人色濃厚なレーベルから踊れるジャズに執着し、放った最大のヒットが1968年の「アップ・アバヴ・ザ・ロック」。ロックより高くのタイトル通りロック。ビートを取り入れたダンス・ナンバーである。商業主義と批判する人には批判させておけばいい。僕にはこの時代のレイがもっともバイタリティに溢れていると感じられるのだから。

 レイが抒情派に戻ったのは1972年。スイスのモントルー・ジャズ・フェスティヴァルに呼ばれた時からだ。モンタレーでレイは土臭いフィーリングを抒情の中に込めることで充分白人ファンに通用することを学んだのだ。黒人大衆の支持はブルース・フィーリングで掴みながらも白人聴衆にアピールするコツを会得したのだ。じつはそれ以降のレイの音楽はあまり面白くない。

 レイが1950年代末、再びダンスに目覚めたのにはきっかけがある。ビルボードを再び見てみよう。ロックンロール元年とされる1956年の年間ナンバーワン・ヒットはビル・ドゲット楽団の「ホンキー・トンク」というイントゥルメンタル曲であった。ギターとオルガンとがウォーキン・テンポのブルースに乗せてソロを繰り返すノリが命の単純な曲である。だがその何気ない臭みが黒人大衆のハートを射止めたのだ。「ホンキー・トンク」は延延28週チャートインし、13週トップの座に居座った。リーダーのビル・ドゲットはコールマン・ホーキンスやルイ・アームストロングとも共演していたもとジャズマンであり、出身もレイやディジー・ガレスピーと同じフィラデルフィアである。レイを始めハード・バップの行方に不安を感じていたジャズ演奏家たちが動揺しないわけがない。

 1960年代には少なくとも半数以上の黒人演奏家たちが、レイ・ブライアントと同じく、黒人大衆の支持を取り戻す方向に進んだように思われる。

最初それはビル・ドゲット同様にオルガンやピアノをフィーチャーすることから始まった。黒人大衆が支える黒人教会の伝統をジャズに応用し、ブルースやゴスペル由来のソウルフルな感覚をジャズに持ち込んだのだ。やがて鍵盤楽器と掛け合う形でのエレクトリック・ギターやサックスの活躍が始まる。R&Bでも花形楽器であるサックスには1940年代から、ポール・ウィリアムスやルイ・ジョーダンのR&Bサックスや、イリノイ・ジャケーやバディ・テイトなどのジャンプ・ホンカーの伝統があったし、エレクトリック・ギターにもブルースの花形楽器としての伝統があったからだ。それらは教会由来の感覚をもってソウル・ジャズと呼ばれている。

さらに、ガレスピーやパーカーなどの初期のビバップ音楽家たちがラテン音楽のリズムをジャズに導入しようとしたことと同様に、踊れるジャズを目指す運動はスウィングの伝統の根源にあったポリリズムをカンフル剤としてジャズに導入しようとする。1960年代半ばにはキューバからブラジル、アフリカまでの多彩なリズムがジャズを彩ることになったのだ。

純粋芸術としてのジャズを突き詰めようとのたうちまわったのはほんの一握りにすぎない。それなのに、白人中産階級の価値観に同化した日本のジャズ・ファンやジャズ・ジャーナリズムはダンスとしての側面を持つジャズをことごとく軽視するか無視するか落としめてきた。日本人がジャズで踊らない民族であることが、ことさらにダンスを軽視する風潮に繋がっているように僕には感じられる。

 

7.英国でのジャズ受容

日本人を踊らない国民とするのなら先進資本主義社会でもっとも踊るのはどこの国民だろうか。僕はイギリス人がもっとも踊る人々だと思う。イギリスの特に労働者階級の人々にはダンスがいわば生活必需品のように人生に貼りついていると聞く。金曜日ともなれば朝からそわそわして終業のベルと共にダンス会場に駆け付けるのが一般的な若者の生活パターンである。もちろんダンス会場は民族や社会階層や好みによってまちまちで、ジャマイカ移民たちはレゲエのダンスホールへ、インド移民たちはバンブラ・ビートのクラブに、そしてアングロ・サクソンたちはノーザン・ソウルやレア・グルーヴやロカビリーやポップなど好みの音楽に合わせて踊る習慣を持つ。そこでは、アルコールとドラッグとフリーセックスが社会問題化してはいるけれど、いわゆるガス抜きとしてダンスを大目に見る社会風潮もあり、規制には慎重だという。ダンスを禁止したり制限したりすればたちまち暴動が発生することが恐れられているからだ。国民一人当たりの一生の性交渉の回数の統計があり、イギリス人がもっとも高かった記憶がある。紳士の国では男はジェイムズ・ボンドばっかりかと意外に思ったものだが、ダンスの習慣がその背景にあるのだと納得した。そんなイギリスではモダン・ジャズさえ踊るための音楽なのだ。

ジョン・レノンの思い出話には音楽をやりたければスキッフルをやるしかなかったという記述がある。ジョン・レノンがティーネイジャーであった1950年代半ばまでイギリスは国内の音楽産業を保護するために米国音楽の流入を水際で堰止めていた歴史がある。モダン・ジャズは簡単には英国に入ってこられなかったのだ。いきおいジャズはクリス・バーバーたちが演ずる大昔のディキシーで留まり、バーバーのバンドマンのひとりロニー・ドネガンがあり合わせの楽器で演ずるスキッフルが唯一、若者が手を出せる音楽として存在したということだ。

 そんなモダン・ジャズは米国音楽の解禁と共に堰を切ったように流行した。若者たちはカビ臭い親父世代のジャズをトラッドとして軽蔑し、現在進行中のモダン・ジャズで踊ろうとしたのだ。モダン・ジャズと共にロックンロールもイギリスの若者を席巻した。単純に言えば、トラッドに対抗する文化を持つ世代のうち、モダン・ジャズで踊る人々はモッズとなり、ロックンロールで踊る人々はロッカーズとなっていがみ合ったのだ。ジャズがもともと持っているスノッブな性格や優越意識がイギリスの若者に浸透し、直情径行の高いロックンローラーたちとぶつかったのである。何枚も出ているモッド・ジャズと題されたコンピレーションCDにはそんなモッズたちに愛好された1950年代、60年代のソウル・ジャズやボサ・ジャズやラテン・ジャズが集められている。日本では無視されていた1960年代のレイ・ブライアントがしっかりアルバムの冒頭を飾る盤もある。

 モッズはやがてジョージィ・フェイムやスモール・フェイセスに代表される自分たちならではの取りすましとワイルドさを共存した音楽を生み出し、1970年代後半にはパンク・ロックの流行と共にジャムというバンドを先頭にネオ・モッズとしてモッズ文化が復活した。

 モッズの文化が聴いて踊るジャズの伝統から飛躍して、演奏するジャズの文化へと発展したのがアシッド・ジャズの流行である。

 モッズのバンドのオルガン奏者だったジェイムズ・テイラーは1980年代半ば、1960年代のオルガン・ソウル・ジャズのレコードに若者たちが熱狂的に踊るのを見て、自らもオルガン・ジャズを始めた。それをきっかけに、1960年代のソウル・ジャズやラテン・ジャズを参考にしながらもさらに洗練されてスムースなグルーヴをもつ現代感覚あふれるジャズを演奏することがイギリスのモッズ・クラブで流行する。クールな陶酔感をもつジャズとしてアシッド・ジャズと命名され、1980年代後半からはブラン・ニュー・ヘヴィーズやインコグニートなどの人気グループが輩出した。クールな感覚はマイルス・デヴィスから40年を経て今度は逆にダンスのグルーヴとして復活したのである。その名もアシッド・ジャズというレーベルやそこから派生したトーキンラウドというレーベルから出される音源がアシッド・ジャズの震源地となった。トーキンラウドからはマイルスの名盤をもじって「クールの再誕生」と題されたアルバムがシリーズで出ており、イギリス

で踊れるジャズが様々な形態に発展した様を見ることができる。

 

   8.マイルス・デヴィスの功罪

ジャズをダンス音楽から遠ざけた一番の犯人はマイルス・デヴィスだと思う。ジャズにクールというヨーロッパ音楽的概念を持ち込んだ話は先に書いた。それは師匠であるチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーのホットな感覚の反対を行くものだった。それではなんでマイルスがパーカーやガレスピーの美学にそむくような音楽を作ったのだろうか。僕はそのきっかけにあるものはマイルスの演奏家としてのコンプレックスだと考えている。ディジーのように早いパッセージも演奏できなければ、つんざくような高音も出せない。痩せた音色をカバーするためにミュートを多用し、高速プレイをせずとも済むようにリリカル・プレイを売り物にした。演奏家としての欠陥を目立たなくするようアンサンブルを重視し、トランペット・ソロを少なくした音楽を売り物にした。

 「マイルス・アット・カーネギー・ホール」という1961年に録音されたライブ・アルバムがある。初めて買った高校生時代からこのレコードの良さが少しも分からなかった。大げさなギル・エバンスのオーケストラに乗せてマイルスが貧弱なソロを取る。屁のような情けない音で、おそるおそるラッパを吹く。そこにはダンスの要素はおろかスウィングの感覚すらない。こんなもので僕が満足するはずもない。

 世紀の傑作と言われる「カインド・オブ・ブルー」も僕はコンプレックスが生んだ傑作だと思っている。マイルスはセントルイスの出身だ。裕福な両親にせがんでニューヨークのジュリアード音楽院に入れてもらった。あこがれのチャーリー・パーカーを見つけるとマイルスは自分のアパートをパーカーに提供するくらい心酔していた。パーカーはカンザス・シティの出身だ。セントルイスもカンザス・シティもブルースの伝統の濃い土地柄だ。パーカーと同じブルースを演奏すればパーカーに比較され、ひらめきのなさや技術のなさが露わになる。マイルスはパーカーと比較されないためにあえてブルースから距離を置く戦法をとった。黒人大衆の美意識から遠ざかろうとも、アレンジやアンサンブルに凝ることでブルースから距離を置くことで自分の存在を際立たせようとしたのである。そのためにはブルースとは無関係の話法で音構成のできるピアニストが不可欠である。それが、西洋音楽教育を受けた白人ビル・エバンスやジョー・ザウィヌルやチック・コリアやキース・ジャレットの起用に表れている。かれらすべてブルースの伝統から遠い鍵盤奏者である。「カインド・オブ・ブルー」は「ちょっとブルーに」という意味だが、僕にはビル・エバンスを起用したマイルスのブルースへの決別宣言に聞こえる。マイルスには身にしみついたブルースすらも自らの音楽を束縛し、みすぼらしい身体を世に露呈させる責め具に思われたのだ。

 ディジー・ガレスピーは1966年に来日した時、日本ではマイルス・デヴィスの人気が高いと聞いていっぺんに不機嫌になった。黒人大衆の美意識に背を向け、プレイヤーとしての未熟をアレンジと編成と製作技術とでごまかしているマイルスに我慢ならなかったのだろう。

 1969年、そんなマイルスに転期が訪れる。バンドをロック・グループのように電気化した「ビッチズ・ブルー」でリズムの多様性を作品のテーマにしたのである。だが、そんなものはソウル・ジャズの演奏家はおろか、先輩のガレスピーやパーカーがすでに40年代から取り組んでいた。しかもマイルスの解釈は中途半端で、リズムによる肉体の躍動が生み出すグルーヴによる精神の解放という命題からは程遠い。その中途半端なリズム遊びが70年代から晩年に至るマイルスの一貫したテーマとなっていく。

 僕はデューク・エリントンのオーケストラから、もっとも黒人的な美意識の高い演奏家たちが輩出したように、マイルス・デヴィスのグループからジャズとダンス音楽との融合に尽力した音楽家が輩出したことをマイルス最大の功績と考えている。

 ハービー・ハンコックもビリー・コブハムもマイケル・ヘンダーソンもエムトゥーメもジャズの要素をダンス音楽に融合したジャズ・ファンクを創っていった偉大な音楽家たちだからだ。あたかもマイルスが先輩に逆らって踊らなくてもすむジャズの創造に腐心したように、彼らは、マイルスを反面教師として黒人大衆の美意識にかなう高度なダンス音楽創りに精力を傾けてきたからだ。

 

9.クロスオーヴァーとフュージョン

60年代のソウル・ジャズを支えたジャズマンたちの多くは70年代には生き残れなかった。70年代はファンクの時代である。クロスオーヴァーとはジャンルを飛び越えることを言う。クロスオーヴァーに対応できなかったのだ。

1965年、ジェイムズ・ブラウンは「パパのニュー・バッグ」というダンス・ナンバーでリズムに革命を起こした。ブラウンはその後数年間、ダンス・リズムのファンク化に取り組む。ファンクとは簡単にいえばシンコペーションの多用である。シンコペーションとは反復するリズムの予期せぬところに力点が変わる遊びである。その遊びを面白いと思うためにはその同時代の音楽やダンスを生んだ文化の話法を知らねばならない。

 ファンクには50年代からのジャズ話法は通用しなかった。ジェイムズ・ブラウンをきっかけに音楽を始めたような若者がその主導権を取ったからである。ジャズからファンクに対応した音楽家ももっと若い世代だった。60年代のソウルの時代まで生き残って来たカウント・ベイシーやライオネル・ハンプトンらもさすがにファンクには対応できなかったのだ。レイ・ブライアントのようにこの時代になってダンス音楽とたもとを分かった演奏者たちもいた。50年代からのジャズ音楽家で黒人大衆の美意識にかなう音楽の製作にとりくんでいたのはクインシー・ジョウンズやドナルド・バードなど一握りにすぎない。

 60年代にジャズを始めた音楽家はもっとファンクに柔軟に対応できた。ニューヨークではキング・カーティスの弟子たちがスタッフを作ったし、クール&ザ・ギャングもジャズからファンクへと音楽性を変化させた。シカゴではラムゼイ・ルイスやフィル・アップチャーチらが時代に合わせて音楽性を変化させたし、デトロイトにはデニス・コフィーがいた。テキサスにはクルセイダーズがおり、ロサンゼルスからはロイ・エアーズが出て来た。マイルス・デヴィスやジョン・コルトレーンの門下生からもハービー・ハンコックを筆頭に、ノーマン・コナーズ、ジェイムズ・エムトゥーメ、レオン・チャンクラー、レニー・ホワイトたちがジャズを起点としながらも黒人大衆の美意識にかなう音楽の製作に乗り出している。こんな動きに呼応するかのようにジェイムズ・ブラウンのバック・ミュージシャンたちもJBズとしてジャズ・ファンクを極めようと奮闘していた。

 やはりジャズ畑から出てきたギタリストのジョージ・ベンソンを先頭にフュージョンのブームが起こった。ベンソンはギターに、音作りに、歌にと、黒人大衆美学の精華を見せたが、ロックやポップスやソウルとジャズの融合を謳ったフュージョン音楽の大部分はイージー・リスニング音楽にすぎなかった。

 

 10、ダンスをばねに復活する現代のジャズ

80年代、かつて黒人たちが聴き親しんだジャズをサンプリングによって現代に生きる音楽として甦らせようというジャズ・ラップが流行する。ギャングスターを筆頭にステツァソニック、ジャングル・ブラザーズ、ア・トライブ・コールド・クウェストらヒップホップ・グループが盛んにジャズに乗せてラップすると、1983年ジャズ界の方からもハービー・ハンコックが得意のエレクトリック・サウンドによるファンク・リズムに乗せて大胆にラップをかぶせる「ロック・イット」の大ヒットを放った。

 ハービーを先達として、ジャズとヒップホップやクラブ音楽との交流や融合は加速する。1980年代末にはヒップホップ文化の中心地ブルックリンからスティーヴ・コールマンを筆頭にグレッグ・オズビーやロビン・ユーバンクスやグレアム・ヘインズなどがMベイスと呼ばれるストリート感覚の強い即興音楽をもって現れた。かれらのジャズはヒップホップと連動して変容しつつある。

 1990年代にはジャンルを超えたすべての黒人大衆音楽の歴史を遺産として受け継ぎ綜合しようと志向する音楽家がテキサスから現れた。ロイ・ハーグロウヴである。2002年に出たハーグロウヴの「PHファクター」はジャズとR&Bとヒップホップ界で活躍する旬の音楽家たちを一堂に集めたアルバムで、それはニュー・オーリンズのストリートで誕生したジャズが今一度ストリートから現代大衆音楽として再生するという構図を描くものだった。その志は同じくテキサス出身のロバート・グラスパーらに受け継がれ2010年代の今日、「ジャズ・ザ・ニュー・チャプター」として日本でも注目され、今やジャズにおけるもっとも熱い潮流と成りつつある。

 ストリートから再生するジャズという意味ではニュー・オーリンズのブラスバンドも忘れてはならない。1990年代のダーティ・ダズン・ブラスバンドの活躍に刺激され、かのちでは現代のストリート音楽としてブラスバンドを再生させる動きが若者たちを中心に盛んだからだ。リバース・ブラスバンド、ボノラマ、クールボーン、ビッグ・サムらの目指すものは現代の若者の生活感情の発露としてのストリート音楽だ。いずれももっとも肉体性の高い楽器としてホーンを利用し血の沸騰するようなジャズ・ファンクを聴かせる。

 新しい時代のダンス音楽、大衆音楽としてのジャズとして僕が最も注目するのは血統正しきサラブレッドのようなブランフォード家ではなく、ニューバース・ブラスバンドに集まったジェイムズとトロイとその従兄弟のグレン・デヴィッドがいるアンドリュース・ファミリーだ。ジャズの未来は原点回帰してニュー・オーリンズにあると思っている。

 

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